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妻沼聖天山〔国宝〕 -埼玉県熊谷市妻沼-

妻沼聖天山〔国宝〕 -埼玉県熊谷市妻沼-

妻沼聖天山(めぬましょうでんざん)は、埼玉県熊谷市にある真言宗の寺院で、歓喜院(かんぎいん)とも呼ばれます。日本三大聖天の一つとされ、聖天堂(本殿)は国宝に指定されています。
寺伝では治承3年(1179)に、長井庄を本拠とした斎藤別当実盛が、大聖歓喜天を奉り聖天宮を開のが始まりとされています。国宝の聖天堂は、江戸中期に再建されたものですが、大工棟梁は妻沼の名工林兵庫正清といわれ、幕府作事方棟梁の平内政信の子孫であり、二十数年をかけて再建されたものです。拝殿・中殿(相の間)・奥殿からなる廟型式権現造は、日光東照宮などに見られる建築形式で、奥殿は入母屋造、桁行3間・梁間3間、正面向拝付き、中殿は両下造、拝殿は入母屋造、これらを接続して一棟とし、屋根はすべて瓦棒銅板葺きとされています。
奥殿は内外ともに彩色彫刻が施され、埼玉日光と称されます。
斎藤別当実盛は、相模国が本拠地の源義朝に従っていましたが、やがて、上野国に進出してきた義朝の弟義賢に従うようになります。義賢を危険視した義朝子義平は、久寿2年(1155)義賢を急襲し討ちました。その後、実盛は再び義朝・義平父子に従いますが、義賢に旧恩もあったため、義賢の遺児・駒王丸を保護し、信濃国の中原兼遠のもとに逃しました。駒王丸は後の木曾義仲となります。
実盛は、保元・平治の乱では義朝方の部将として戦いましたが、義朝滅亡後、関東帰った後は平氏に仕え、有力武将として重用され、治承4年(1180) 源頼朝が挙兵した時も平氏方にとどまりました。
寿永2年(1183) 平維盛らと木曾義仲追討のため出陣し、加賀国の篠原の戦いで奮戦し、義仲方の部将の手によって討死しました。義仲は、かつての命の恩人の死を知って、人目もはばからず泣いたといわれています。
熊谷市西野には、市指定史跡「斎藤実盛館跡 実盛塚」があり、「斎藤別当実盛館跡史跡保存会」により大切に管理されており、当時を偲ぶことができます。

地図-妻沼聖天山
妻沼聖天山
2020-06-20
撮影日:2020年01月19日

妻沼聖天山
妻沼聖天山 手前は仁王門(国登録有形文化財)、奥は聖天堂(国宝)
妻沼聖天山 聖天堂
聖天堂(国宝)の彩色彫刻、日光東照宮のようです。
妻沼聖天山 貴惣門
貴惣門 重要文化財
妻沼聖天山 斎藤別当実盛公像
斎藤別当実盛公像
斎藤実盛館跡 実盛塚
斎藤実盛館跡 実盛塚(熊谷市指定文化財)

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