堀越城跡〔国指定史跡〕 -青森県弘前市大字堀越-
2021 / 09 / 20 歴史コラム
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堀越城は、戦国時代末期、弘前藩初代藩主となる津軽為信により築城されました。弘前市では平成10年(1998)~25年(2013)まで発掘調査が行われ、その成果をもとに史跡公園として整備され、令和2年(2020)4月に全面公開されました。
堀越城跡の概要については、弘前市のHPに次のように紹介されています。
「堀越」という地名が文献上に現れるのは、南北朝時代の建武4(1337)年にさかのぼります。この時の記録には「堀越に楯(館)[たて]を築く」とありますが、この「楯」の詳細は不明です。
大浦城(弘前市大字五代)の城主であった「南部右京亮[うきょうのすけ]」為信(後の弘前藩初代藩主津軽為信)は、16世紀後半(約440年前)に、津軽を支配していた南部氏から独立を図ります。この頃から再び、「堀越」の地名が現れ始めます。
弘前藩が享保16(1731)年に編さんした弘前藩官撰史書『津軽一統志』によると、元亀2(1571)年、為信は堀越城から石川城(大字石川)の城主南部高信を奇襲し、石川城を攻め落としたとされています。その後、為信は大光寺城[だいこうじじょう](平川市)や浅瀬石城[あせいしじょう](黒石市)を攻略し、天正19(1591)年頃までには、「津軽右京亮」為信として豊臣秀吉より大名として認められ、領地安堵を得ることとなりました。
文禄3(1594)年、為信は堀越城を改修し、大浦城から居城を移します。その後堀越城は、弘前藩2代藩主信枚が高岡城(後の弘前城)へ拠点を移す慶長16(1611)年までの17年間、津軽氏の居城として栄えました。
昭和60(1985)年、「戦国時代から江戸時代まで続いた大名の居城・居館等を発展・展開順に指定する」という、文化庁の方針の下、「津軽氏の発展形態の理解を容易とする」ため、昭和27(1952)年に既に国史跡指定を受けていた弘前城跡(史跡弘前城跡)に追加する形として、堀越城跡は国の史跡に指定され、名称は「史跡津軽氏城跡」に改められました。なお、平成14(2002)年には、種里城跡[たねさとじょうあと](西津軽郡鰺ヶ沢町)も追加指定され、名称は「史跡津軽氏城跡種里城跡・堀越城跡・弘前城跡」に改められました。
現在の堀越城跡の形は、本丸を中心として、周囲を家臣等が住む二之丸、三之丸、外構[そとがまえ]等の曲輪[くるわ]が取り囲む平城となっていますが、この城の形は、為信が文禄3(1594)年の堀越への居城移転の際に行った大改修により作られたものと考えられています。
周辺には何もないところですが、国道7号線を少し南に走ると、道の駅「ひろさき サンフェスタいしかわ」があります。近くへお越しの節はお立ち寄りください。
地図 – 堀越城跡
国指定史跡津軽氏城跡 堀越城跡
撮影日:2020年09月02日