永福寺跡(国指定史跡) -神奈川県鎌倉市二階堂-
2022 / 06 / 20 歴史コラム
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永福寺(ようふくじ)は、源頼朝が文治5年(1189)に奥州合戦の後、戦いで亡くなった数万の将兵の鎮魂のために建てたれた寺院で、平泉の毛越寺や中尊寺を参考にしたとされています。頼朝が征夷大将軍に任命された建久3年(1192)二階堂が完成し、この堂の名は現在の地名ともなっています。建久5年(1194)までに、阿弥陀堂、薬師堂が完成し、この三つの堂を中心に、惣門、南門、釣殿、多宝塔、鐘楼、僧坊などの建物があったとされ、「その姿形は極楽の様子をそのまま表したようだ」と形容されています。二階堂の本尊は釈迦如来と考えられ、阿弥陀堂の阿弥陀如来、薬師堂の薬師如来と併せて三尊を祀る寺院でした。頼朝の没後、蹴鞠、酒宴、花見、雪見、歌会等が境内で行われるようになり、幕府の迎賓館として使われていくようになりました。鎌倉時代中期には大きな修理が行われ、鎌倉時代後期には二度にわたる火災に遭い、消失、再建を繰り返しました。
応永12年(1405)12月の火災では主要な建物が焼け落ち、その後は再建されることなく廃絶してしまったと考えられます。当時の絵図などがなく、堂の規模や配置などは分かっていませんでしたが、昭和58年(1983)~平成8年(1996)まで発掘調査が行われ、中心の二階堂、阿弥陀堂、薬師堂のほか、複廊、翼廊、釣殿、橋、庭園の規模や配置が明らかになりました。この成果から、永福寺は全国の鎌倉時代に建てられた寺院の中でも、有数の規模を持つ当時の代表的な寺院であったことが明らかとなりました。鎌倉市では、調査成果を基にした建物の基壇(基礎)と庭園の復元など、永福寺跡の環境整備事業を実施しています。
地図‐永福寺跡
永福寺跡‐湘南工科大学
撮影日2022年6月10日