前山寺(ぜんざんじ)は、真言宗智山派の古刹で、塩田平を見下ろす独鈷山麓に佇む霊場です。本尊は大日如来、間口十間、奥行八間の木造萱葺の本堂は、元禄11年(1698)~享保12年(1727)の創建と推定されます。弘仁年中(812)空海上人が護摩修行の霊場として開創したと伝えられ、元弘年中(1331)讃岐国善通寺より長秀上人が来止し、正法院を現在の地に移し、前山寺を開山したといわれます。境内に建つ三重塔(国指定重要文化財)は、室町時代の建立とされ、三間三重で、高さ19.5m、屋根は柿葺です。二…
上杉謙信と武田信玄が戦った、川中島第四次合戦で、この八幡原に武田軍の本陣があったと伝えられます。現在はここに八幡社や市立博物館が設けられ、周辺は川中島古戦場史跡公園として整備され、歴史散策や市民の憩いの場となっています。武田信玄が本陣を置いたとされる川中島古戦場・八幡社には、「一騎討ち像」「三太刀七太刀之跡の石碑」「執念の石」「首塚」「逆さ槐」が置かれ、当時をしのぶことができます。
鼠ヶ関(ねずがせき)は、奥羽三関の一つで、越後国と出羽国の国境に位置し、出羽国の日本海側の玄関口となっていました。奥羽三関とは、五世紀頃に蝦夷の南下を防ぐために設けられた関所で、鼠ヶ関の他、勿来関(福島県いわき市)、白河関(福島県白河市)を指します。 「鼠ヶ関」の文献上の初見は、平安時代中期の歌人・能因法師の「能因歌枕」で、「ねずみが関」とあります。その他、「保元物語」には「念誦の関」、「義経記」には「念珠の関」、「吾妻鏡」には「念種関」と記されています。 長者ケ原(ちょうじゃがはら)遺跡は、姫川河口近くの台地上に縄文時代早期から後期まで営まれてきた遺跡で、現在遺跡公園として整備されています。糸魚川でしか産出されないヒスイの産地でもあり、糸魚川市立フォッサマグナミュージアムに隣接しています。竪穴住居、掘立柱建物などが復元展示され、土器捨て場展示施設では、土器や石器が出土したようすをガラスごしに見ることができます。この場所からは多量の土器が出土しており、土器のほかにもヒスイ原石や蛇紋岩の石斧の未成品、また玉類の製品や完全な形の指輪形石製品とい… 糟屋館(かすややかた)は、相模国守護・扇谷上杉氏の本拠地で、「上杉館跡」として伊勢原市の史跡に指定されており、扇谷上杉家の家宰・太田道灌が暗殺された場所として知られています。糟屋館の周辺は、現在産業能率大学になっており、新東名高速道路の工事などもあって、地形は大きく変わりつつあり、そのうち大学前の糟屋館の説明板以外、跡形もなくなくなると思います。太田道灌の胴塚は、上粕屋の曹洞宗の寺院洞昌院にあります。伝説では、道灌は襲撃を受けた後この寺まで逃れ、この時山門が閉まっていたため、ここで自決を… 松江城は、別名「千鳥城」とも呼ばれ、日本に現存する12天守の一つであり、国宝指定された5城(松江城の他は、犬山城、松本城、彦根城、姫路城)の中では、国宝指定が平成27年(2015)と最も遅い城です。築城は慶長16年(1611)、堀尾忠氏によるものですが、山陰地方の政治経済の中心となる藩庁としての役割を担っていました。藩主は堀尾→京極→松平と変わりますが、寛永15年(1638)出雲18万6千石で入封した松平直政から明治維新まで続きました。城の構造は、輪郭連郭複合式平山城で、松江の水郷を生か… 彦根城は、彦根藩の城として、井伊直継(なおつぐ)・直孝(なおたか)によって約20年の歳月をかけて建設され、元和8年(1622)に完成しました。彦根城は、姫路城と共に遺構がよく保存されている城郭で、天守、多聞櫓は国宝、城跡は特別史跡に指定され、彦根八景・琵琶湖八景にも選定されています。桜の名所としてもよく知られており、この季節には多くの観光客で賑わいます。
太宰治記念館 「斜陽館」は、小説家太宰治の生家で、現在は五所川原市の観光名所となっています。太宰治の父 津島源右衛門の手で明治40年(1907)に建設され、ヒバを贅沢に使った入母屋作りの建物は、1階11室278坪、2階8室116坪、付属建物や庭園など合わせて約680坪の豪邸です。近代和風住宅の代表例として平成16年(2004)国の重要文化財に指定されました。
斎場御嶽(せーふぁーうたき)は沖縄県南城市知念にある史跡で、15-16世紀の琉球王国・尚真王時代の御嶽で、政府が整備した国家的な宗教組織との関連が深い琉球王国最高の聖地です。
御嶽(うたき)とは、南西諸島に広く分布している「聖地」の総称です。斎場御嶽(せーふぁうたき)は琉球開闢(りゅうきゅうかいびゃく)伝説にもあらわれる、琉球王国最高の聖地です。巨岩や聖樹に囲まれた空間には、首里城内にある部屋名と同じ名前の拝所があり、当時の王府と斎場御嶽の関わりの深さをみることができます。琉球最高…