払田柵跡(ほったのさくあと)は、古代城柵官衙(じょうさくかんが)遺跡で、平安時代の初めころ(約1,200年前)、律令国家がこの地方の統一を進めるために造った、政治的・軍事的拠点で、また儀式の場としての役割を持っていたと考えられています。外柵(がいさく)と呼ばれる、角材(高さ3.6m、縦・横30cm)を並べた材木塀は総延長約3.6km、遺跡の総面積は約87.8haにもなる広大な遺跡です。創建に使われた角材は、年輪の研究から延暦20年(801)ころの伐採と判明し、この遺跡はほぼその頃に創建さ…
日本家系図学会 令和6年度(第16回) 総会を、下記の要領にて開催いたします。ぜひ、ご参加下さいますようご案内申し上げます。興味のある方は、非会員でもご参加になれます。
日時 令和6年11月2日(土) 午後3時~5時
場所 末日聖徒イエス・キリスト教会 渋谷ワード
東京都渋谷区桜丘町28-8(JR渋谷駅南口 徒歩5分)地図 セルリアンタワーの裏です。
参加費 1,000円(資料代含む)
議事内容
石見銀山遺跡は、鉱山遺跡としてはアジアで初めて世界遺産に登録されました。遺跡のある大田市は松江市や出雲市からもかなり遠く、交通も便利ではないですが、かつては世界の銀の3分の1の量を産出していた世界的な鉱山ですので、一度は訪ねて見てください。詳しくはこちら…
「石見銀山(いわみぎんざん)遺跡とその文化的景観」は、平成19年世界文化遺産に登録されました。世界遺産は14の資産で構成され、「銀鉱山跡と鉱山町」(銀山柵内や大森町など)、「街道」(温泉津沖泊道・鞆ヶ浦道)、「港と港町」(鞆ヶ浦・沖泊・温泉津)の3つの分野に分類されています。戦国時代後期から江戸時代前期にかけて最盛期を迎えた銀山は、世界の銀の約3分の1を産出したとも推定され、採掘・製錬の鉱山跡、外敵から守る城跡、物資を輸送した街道、港町、銀山に隣接して発展した大森町など、遺跡の保存状態も…
長い歴史を持つ尾去沢鉱山は、鹿角市の山中にあり、高い煙突を見るとなかなか迫力があります。見学コースは1時間近く要する上、夏は寒く冬は暖かなので、着るものに配慮がいります。
詳しくはこちら…
尾去沢鉱山は、鉱脈型銅鉱床と呼ばれ脈状の銅鉱脈を採掘した鉱山でした。「史跡 尾去沢鉱山」では、これらの坑道、採掘跡を一般に公開した施設で、貴重な産業遺産が多く残されており、近世から近代にかけての日本の鉱業の変遷を見ることができます。
尾去沢鉱山の発見は、奈良時代の和銅元年(708)であると伝えられています。記録として残されているものは、南部藩士の私記「祐清私記」や「長坂見立始り」、「大森親山獅子大権現御伝記」など主には江戸時代に書き残されたものです。尾去沢地域には、東に西道、五十枚…
姓氏と家系 令和6年-1 第31号(会誌通巻第119号)が令和6年6月30日発行されました。
<目次>
・務古水門に関る諸氏族と祭祀
―関連して神功皇后外征の航路雑考― ‥ 宝賀寿男
・東松山城主日奉姓上田氏とその系図に関する考察 ‥ 松永昂大
・南部(大浦)光信の津軽入部時の従士に関する検討(2)
~津軽為信の出自検討および下久慈の検討も併せて~ ‥ 岩城大介
・甲斐武田氏庶流穴山氏の初期系譜とその動向 ‥ 真野信治
・…
米沢藩は、戦国大名 上杉謙信を祖とする藩です。関ヶ原の戦いの後、会津から大きく減封され米沢に移されたことは有名です。幕末。奥羽越列藩同盟でも新政府軍と戦い、義を重んずる家風でした。詳しくはこちら…
米沢藩主上杉家廟所(うえすぎけびょうしょ)は、米沢藩上杉家歴代の墓所です。杉木立の中に上杉謙信から十二代藩主までの廟屋が立ち並んでおり、荘厳な雰囲気に包まれます。市民からは、墓所を御廟、廟所、御廟所、御霊屋(おたまや)と呼ばれ、敬い親しまれています。慶長6年(1601)上杉家は越後から米沢に移封され、二代景勝が逝去した後、上杉家歴代藩主の墓所と定まりました。その後、景勝を中心に左右交互に廟が建てられ、廟の前方には拝殿が造営されていました。また、各廟の参道も今より前方に延びており、その周囲…
【戸籍広域交付制度】(令和6年3月1日施行)
最寄りの市区町村の窓口で、本籍地以外の市区町村の戸籍・除籍証明書を請求できるようになりました。これまで家系図作成のため、除籍謄本等を遡って請求する時、転籍などがある場合は、複数の役所へ請求を繰り返す必要がありましたが、今後は一つの窓口で請求できるようになりました。
【どこでも】
本籍地が遠くにある方でも、お住まいや勤務先の最寄りの市区町村の窓口で請求できます。
【まとめて】
ほしい戸籍の本籍地が全国各地にあっても…