長い歴史を持つ尾去沢鉱山は、鹿角市の山中にあり、高い煙突を見るとなかなか迫力があります。見学コースは1時間近く要する上、夏は寒く冬は暖かなので、着るものに配慮がいります。
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尾去沢鉱山は、鉱脈型銅鉱床と呼ばれ脈状の銅鉱脈を採掘した鉱山でした。「史跡 尾去沢鉱山」では、これらの坑道、採掘跡を一般に公開した施設で、貴重な産業遺産が多く残されており、近世から近代にかけての日本の鉱業の変遷を見ることができます。
尾去沢鉱山の発見は、奈良時代の和銅元年(708)であると伝えられています。記録として残されているものは、南部藩士の私記「祐清私記」や「長坂見立始り」、「大森親山獅子大権現御伝記」など主には江戸時代に書き残されたものです。尾去沢地域には、東に西道、五十枚…
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● 令和6年07月17日(水) 東京都内
…姓氏と家系 令和6年-1 第31号(会誌通巻第119号)が令和6年6月30日発行されました。
<目次>
・務古水門に関る諸氏族と祭祀
―関連して神功皇后外征の航路雑考― ‥ 宝賀寿男
・東松山城主日奉姓上田氏とその系図に関する考察 ‥ 松永昂大
・南部(大浦)光信の津軽入部時の従士に関する検討(2)
~津軽為信の出自検討および下久慈の検討も併せて~ ‥ 岩城大介
・甲斐武田氏庶流穴山氏の初期系譜とその動向 ‥ 真野信治
・…
米沢藩は、戦国大名 上杉謙信を祖とする藩です。関ヶ原の戦いの後、会津から大きく減封され米沢に移されたことは有名です。幕末。奥羽越列藩同盟でも新政府軍と戦い、義を重んずる家風でした。詳しくはこちら…
米沢藩主上杉家廟所(うえすぎけびょうしょ)は、米沢藩上杉家歴代の墓所です。杉木立の中に上杉謙信から十二代藩主までの廟屋が立ち並んでおり、荘厳な雰囲気に包まれます。市民からは、墓所を御廟、廟所、御廟所、御霊屋(おたまや)と呼ばれ、敬い親しまれています。慶長6年(1601)上杉家は越後から米沢に移封され、二代景勝が逝去した後、上杉家歴代藩主の墓所と定まりました。その後、景勝を中心に左右交互に廟が建てられ、廟の前方には拝殿が造営されていました。また、各廟の参道も今より前方に延びており、その周囲…
【戸籍広域交付制度】(令和6年3月1日施行)
最寄りの市区町村の窓口で、本籍地以外の市区町村の戸籍・除籍証明書を請求できるようになりました。これまで家系図作成のため、除籍謄本等を遡って請求する時、転籍などがある場合は、複数の役所へ請求を繰り返す必要がありましたが、今後は一つの窓口で請求できるようになりました。
【どこでも】
本籍地が遠くにある方でも、お住まいや勤務先の最寄りの市区町村の窓口で請求できます。
【まとめて】
ほしい戸籍の本籍地が全国各地にあっても…
隠岐国分寺跡は、聖武天皇勅願寺で、後醍醐天皇御遷幸の寺院といわれます。ここは島後島ですが、御在所の黒木御所阯は西ノ島にあります。隠岐の島は今でも行くのはたいへんですが、後醍醐天皇も遠い都を思い我が身の不遇を嘆いのかもしれません。詳しくはこちら
隠岐国分寺跡は、隠岐に流された後醍醐天皇の行在所と伝えられています。現在この地にある隠岐国分寺(東寺真言宗)の後方に礎石があり、これが明治の廃仏毀釈前の本堂跡です。境内からは奈良時代の瓦が見つかっていますが、創建時の様子は分かっていません。毎年4月には重要無形民俗文化財の蓮華会舞がおこなわれます。現国分寺の境内は、昭和9年(1934)に遺跡の包含地として国の史跡に指定された。平成19年(2007)に本堂が火災により焼失しましたが、再建に伴い平成21年度(2009)から実施された発掘調査に…
つつじで有名な館林市のつつじが岡公園は、4月から5月のゴールデンウィークの頃が見ごろでしたが、近年は温暖化の影響で少し時期が早まっているようです。行かれる方は見ごろを確認してから出かけてください。詳しくはこちら