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● 令和8年06月15日(月)- 17日(水) 関東地方
● 令和8年06月22日(月)- …
日本家系図学会誌「姓氏と家系」令和8年-1 第35号(会誌通巻第123号)が発行されます。
発行日 令和8年6月1日
<目次>
・甲斐武田氏と安芸武田氏の関係とその庶流の系譜 ‥ 真野信治
・大和の筒井氏と乾党諸氏(下)‥ 宝賀寿男
・南部(大浦)光信の津軽入部時の従士に関する検討(6)
~津軽為信の出自検討および下久慈の検討も併せて~ ‥ 岩城大介
・信濃赤木氏の西遷と神林氏・三村氏 ‥ 宮下玄覇・宝賀 寿男
・コラム 旅…
安曇郡は古くから仁科氏が支配した地域ですが、その支流といわれる真々部氏の館跡が、乗護山金龍寺周辺に残されています。ここには、武田信玄による信濃攻略のための軍道「武田の侔道」も開かれ交通の要衝となっていました。詳しくはこちら…
真々部氏館(ままべしやかた)は、信濃国安曇郡の豪族仁科氏の庶流・真々部氏の居館で、真々部氏の菩提寺 乗護山金龍寺(臨済宗)一帯に築かれていました。本堂裏手が本丸、輪郭式に寺の境内と墓地が二の曲輪で、大手が西向きに開かれていました。戦国時代に武田氏が安曇郡に入るための交通の要衝に構築した館で、天文年間(1550年代)武田信玄が、松本から真々部を経由し大町方面を結ぶ、「武田の侔道」が設けられました。
アメリカ人の動物学者モース博士は、横浜から東京に向かう汽車の窓から大森貝塚の貝層を発見した、といわれます。今でも、東海道線・京浜東北線が遺跡のすぐ横を通過して行きます。「日本考古学発祥の地」といわれる大森貝塚遺跡庭園は、今では住宅地の傍らで縄文時代の歴史を伝えています。 大森貝塚(おおもりかいづか)は、東京都品川区・大田区にまたがる縄文時代後期~末期の遺跡です。貝塚とは大昔のゴミ捨て場で、貝以外にも動物の骨・土器・石器など様々なものが見つかっています。
能登畠山氏の七尾城は、七尾湾を見下ろす山の上に築かれました。単なる城郭ではなく城を中核とした街を形成していました。戦国時代の山城跡としては訪れる人も多く、休日にはボランティアガイドが案内をしてくれます。能登地震の影響で通行できない箇所もありますので、訪ねる方は注意が必要です。 七尾城跡は、能登国を治めた畠山氏が16世紀前半に築いた、日本有数の大規模な山城跡です。所在地は七尾市古城町で、国指定史跡にもなっています。 古代ローマの遺跡を思わせる美しい連続アーチ橋「タウシュベツ川橋梁」は近年劣化が激しく、いつまで連続アーチがつながっているか危ぶまれる状況です。春~秋はヒグマの出没する地域でもあり、1月~2月の厳冬期は糠平湖の凍った湖面を歩いて行けますが、大雪自然ガイドセンターのツアーに参加するのがよいでしょう。 タウシュベツ川橋梁は、糠平湖にある旧国鉄士幌線の全長130mのコンクリート製アーチ橋です。大雪山国立公園内の自然と調和した美しい連続アーチは、ここでしか見られない独特の景観として知られ、観光名所となっています。 国鉄士幌線は昭和14年(1939)に十勝三股まで開通しましたが、音更川沿いの渓谷を通過するため、多くの橋梁が架設されました。その際、材料を現地で調達できる鉄筋コンクリート造が採用され、タウシュベツ川橋梁のほかにもいくつものアーチ橋が建設されました。これらは全体…
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1877年にアメリカ人の動物学者モース博士が発見し、日本で初めて本格的な科学的発掘調査が行われたため、「日本考古学発祥の地」として知られいます。現在は「大森貝塚遺跡庭園」として整備され、貝塚の歴史が学べる歴史庭園となっています。
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この城は石動山系に築かれ、南北約2.5km・東西約1.0km、総面積約252.6haという広大な規模を誇ります。一帯は「城山」と呼ばれ、自然地形を巧みに活かした防御構造が特徴です。特に、七尾の地名の由来ともされる「七つの尾根」を中心に、多くの曲輪(くるわ)が連なる縄張りは、日本の山城の中でも非常に高度な設計といえます。山麓には城下町が形成され、…
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